「観察するちから」
この前の個展、ここあーとらんどの個展の際に、画廊を訪れてくれた年配の女性の方と話をしていると、面白い体験談を聞くことができました。
「私も少し絵を習ったことがあって、一緒に絵を描く方の中にとても上手く野菜を描く人がいたので、どうやったらそんなに上手く野菜が描けるんですかって聞いたのね。そしたら、私八百屋をやっていました。っておっしゃったのね。やはり見るところが違うわね。」 …そう話してくれました。
さすがに僕が野菜を描いても、造形的には僕のほうが上手いかもしれませんが、野菜に込める愛情のようなものはそのおばさんには及ばないでしょうね。毎日触っているし、商売ですから美味しくなさそうなものは即生活に関わります。真剣に野菜と付き合っている様は、絵描きの観察とは違った角度からの、愛情の深さが異なります。
ちょっと感じは違うかも知れませんが、僕の大学生の頃の話。僕はヌードを描くときに、よく他のクラスにもぐりこんで絵を描いていました。どうも女性を描くなら、やはりただ美しいモデルさんよりは愛情を注げる「人」を描きたいのです。そういう絵を描きたいと気に入ったモデルさんなら、世間話でもして、せめて絵の中だけでも彼女として描きたいのが人情。 当時は今よりもモデルさんの年齢も高く、厚化粧・三段バラ肉 (失礼な言い方ですが…) の方が多く、当時の僕にはどうしても描く対象には思えなかったので、そういうワガママナ行動に出たのです。今でもそのときの鉛筆デッサンの姿は、大切にとってありますし、後日ビュランで銅版に起こしました。
久しぶりに、5年前から不定期に大学で教えるようになってからは、関係もないのに大学一年生のヌードの授業に出かけて、学生を観察します。ポーズの前に「お願いします。」終わったら「ありがとうございました。」というのが礼儀ですが、最近の学生はそういうことも出来ないことに気が付きました。結果としての絵のことは色々いっても、絵を描くに当たっての人間としての、画家の姿勢のようなものは誰も気付かせないのですね。だから愛情のない観察のない絵ばかりです。そんなことしなくても、ものを見る方向はそれぞれ違うので、それぞれが観察することで個性はおのずと出てくるのですが。
それがきっかけで、そこで僕は「みんなが描いているモデルさんには名前があって年齢があって、気になる本があって、趣味が合って、悩みがあって…今までの経験や知識というものがあって、…一人の血の流れる人格のある女性なんだから、そういう気持ちで人(モデルさん)と接してほしい。石膏像を描いているのとは違うんだよ!」…担任でもない、毎年の僕の4月はこうやって始りますが、大きなお世話ですよねまったく。
実は、モデルさんという対象は学校で大量の学生に大量に絵を教えるときの方便で、とてもいびつな方法なのです。それ以前は、絵を発注する人(パトロン)が絵にしたい人物をつれてきたり、例えば奥方や嫁入り前の自分の娘だったり、とても具体的な対象でした。それに、絵描きは美しく見せようとしたり、その人の性格まで出そうとしたり。発注者は「もっと可愛く描け!」とか注文が入ったり…。愛情深く描けたら、絵描きは発注者から密通したのではないかと言いがかりを掛けられたり。そんな人間的なかかわりの中から絵は生まれて来たのです。そんなことも絵画の歴史が続くと忘れ去られて、絵から魂が抜け、巨大な美術館で眺められる対象物になってしまうんですね。…話がズレそうなのを我慢します
人が作ったもの。いい絵とは、そういうことまで見る側に想像させます。そして理解することにも見る人の経験と見ることの経験を要求します。出会いは奇跡です。本と同じですね。本のように数年後に読み返しても発見があって自分の読む深さが増したことに気が付かせてくれる本もあれば、どうしてこんな本を買ってしまったのか読み返したくもなくなる本もおあります。絵にも手垢こそ尽きませんが、一枚の絵の向こう側とこっち側で、違った観察力が交差するんですね。今度絵を眺めるときには、どんな人々が残してくれた絵なのか、感謝しながら調べてみるのも面白いかもしれません。違った絵に見えてくるかもしれませんよ。
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