周 豪 『二度目の個展にあたって』
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丸亀では二度目の個展になる。前回は2000年の春、版画が中心だ
った。今回の展覧会は、当初ドローイングをメインに構成しょうと 思っていたが、2000年以降制作した70数点の版画の中から、どう しても割愛できないものを選んでいるうちに、とうとう版画だらけ になり、結果的には今回も版画を中心とした内容になってしまった。 美大の二年から版画をやるようになって、屈指してもうすでに16年 になる(元々は油絵を描いていた)。最近は、ドローイングを描く ことが段々と増え、その中、一つおもしろい変化に気付いた。それは、 絵を描く時、十数色ものチューブの入った絵の具箱を開いても、たっ た二、三色だけで絵を描いてしまうようになったことだ。それは、 どうやら長年版画をやってきたことと関係があるようだ。 当り前のことだが、版画は、版があっての絵だ。画面に線や面など を与えたい時、それをじかに画面に描くのではなく、わざわざその ための版を作って、色を付けて画面に転写していくのだ。 この版画に於ける「版」は、タブロー作家の筆や絵具とは性質上大 差ないが、しかし、一枚の版を作るには、かなりの手間がかかる。 版を思う存分筆や絵具のように、自由に使うことは出来ない。 実際、版画を作る時、私も常に二、三版で四、五版の効果をカバー しようと工夫するものだ。「如何に少を持って多を表すか」--この 根性は版がチューブになった場会も同じことなのだ。「版」と言う 制限の中で、うまく表現できた時、不自由の中にこそ一層大きな自 由が約束されているのだと、いつもそんな気がしている。 版画の魅力のもう一つは、いわゆる意外性や偶然性のことだ。勿論 経験上、ある程度、一定の効果は予想できる。しかし作家本人の手 によりながらも、出来た版は、まるで生きもののように、時には、 極めて他者性の強いものと化けることもよくある。予想外の出来事 を前に、「思った通りにならなかったから失敗だ」と言う人もいる だろう。しかし、私はむしろイメージ通りのモノができてしまうほ ど、詰まらないことはないと思っている。作品の成否を問う時も、 よく自分の作った版が、一体どれだけの他者性を持って、作品に関 わってくれたかを重要なポイントにして見ている。 ここ数年、私はすべての偶然性を、今この瞬間、私に訪れるべくし て訪れた必然的偶然なのだて考えている。振り返って見て、自分の 作品の大半が、版画によって占められているのは、多分版の他者性 に強く引かれているからだろうと思う。 |
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