営業時間:午前10:00 〜午後6:30
火(予約営業)・休廊:水曜


企画展 >原 博史 展> アーティストトーク
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原 博史 展
2012年1月7日(土)~29日(日)
10:00am~6:30pm
休 廊:火曜(予約営業)、水曜

<作品のお問合せ>
あーとらんど ギャラリー
763-0022香川県丸亀市浜町4番地
TEL 0877-24-0927
E-mail : sales@artland-gallery.jp

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原 博史 展 アーティストトーク
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「現代美術における中央と地方」


1月8日(日) 午後2時 ~
会場:あーとらんどギャラリー

 
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松永 康さん
(アート・コーディネーター)
松永さんのレクチャー要旨

「現代美術における中央と地方」
明治維新から今日に至る日本社会は、中央集権制の確立から地方分権制の再編に向けて展開してきたと言える。そして、美術においてもまた同様の展開が見られる。
明治以降、日本では、近代化を進めるために「美術」という新たな制度が西欧から導入された。そしてそれを運営する美術界は、官展を中心とした美術家団体によって主導されてきた。
戦後になると、美術は民主化を進めるために利用されるようになり、美術家団体は分裂しながら多頭化してゆく。これらはいずれも、都市部を中心に展開していた。
一方で敗戦後は、団体展系の美術家により、県展や市展を通して美術を地域に根づかせる活動が行われるようになる。それは美術を地方分権化するための試みであったと言える。
また1960年代には各地で前衛美術運動が起り、継続を前提としない美術家のグループが無数に結成される。これらの動向は美術評論家によって主導され、雑誌等を通して「現代美術」という名称が広まる。
さらに1970年前後に「もの派」が現れ、素材を通して自己と対峙する表現が行われるようになる。彼らはグループによる活動を好まず、作品の発表は主に都市部の画廊を使った個展で行われるようになる。そのことで現代美術は個人の活動となった。
画廊系の美術家は、1980年代に入るとしばしば海外で発表活動を行うようになる。そのため彼らの発表場所は主に都市部と海外となり、自らが住まう地域で発表する機会はほとんどなくなった。一方で団体展系の若手作家が美術界で評価を得にくくなったため、地方では美術家の高齢化が進んだ。
1990年代に入ると個展を中心に活動を行っていた美術家の傾向が多様化し、その枠自体があいまいになってきた。そして2000年代に入り、その中からアート・マーケット系、福祉アート系、自己対峙系という3つの流れが現れる。
1990年前後よりアメリカを中心に国際的なアート・マーケットが形成されるが、村上隆がそこで成功したのを機に日本の画商もまたそこで行われるアートフェアに参加するようになる。そこで扱われるようになった美術家をアート・マーケット系と言う。
また今日、地方において住民の高齢化が進んでいる。そうした地域に美術家を目指す若者を派遣し、造形活動を通して共に生きがいを高め合うという政策が進められている。そこに参加している人々を福祉アート系と呼ぶ。
さらに、もの派の流れを汲むところの自己と対峙する美術家もまた、新たな展開の場を求めている。原博史などもそこに含まれるが、こうした美術家の活動は教育と結びつくことが適当と思われる。今日、覚える教育から考える教育への転換が求められており、そのために自己と対峙する美術は大きな力を発揮すると思われるからである。




原 博史さんのレクチャー要旨

 はじめに簡単に自分のこれまでの歩みを松永さんとの出会いを含め語り自己紹介としたい。私は、絵を描くことが好きで美術大学に進学し油彩画を学んだ。油彩画を選択したのは当時の高校の美術教諭が油彩画を描いていたからいわば無自覚な選択だったかもわからない。1970年代後半、美大在学中に次のような内容の話を度々聞かされた。「これから美術家をめざす人間は、既存の団体展を頼りに制作していくのではなく、自らを深く見つめ制作し内的必然性より生み出される作品を制作することが重要だ。その為、自らが自由に展示できる貸し画廊をかり発表していくべきだ」こうした流れがあり80年代には銀座、神田などの貸しギャラリーで多くの若い作家による個展が開催され、実験的な作品が展開された。そこには作家や評論家、美術館関係者などの多くの美術関係者が集まり真剣に議論しあい熱気が充満していた。私は美大卒業後、帰郷し地元香川で自分たちの作品を自由に発表し研鑽する場を作ろうと友人たちとビルの空きスペースを生かしたギャラリーをビルの経営者の理解を得て企画運営し、自らも1992年まで毎年のように個展を開き地元での美術活動に専念していった。こうした地方での美術活動は紆余屈折をへて今、仲間と共に地域における美術文化活動を展開する『NPOかがわ・ものづくり学校』を立ち上げ新たな段階を迎えている。反面、東京での発表活動は、20代の頃に3回開催しただけで未消化な気持ちが残っていた。当時埼玉県近代美術館の学芸員であった松永さんとはこのころ私の個展会場で出会った。そうした未消化な気持ちを確認したく50歳の時、再び東京の貸しギャラリーを借り個展を開くことにした。その時、旧知のよしみで松永さんに会場選びを相談した。いくつかの候補を挙げていただきその一つの『ギャラリーなつか』と契約し3回の個展と1回のギャラリー企画のグループ展で発表することとなった。その中で感じたことは、これが時代の変遷であろうと思うがギャラリーを訪問する美術関係者も少なくかつて感じた熱気は感じられず、ずいぶん変わったなと感じた。また、同時に2008年には、友人のすすめもありカナダのバンクーバーで個展を開いた。ここでも開催候補となるいくつかのギャラリーを回った。日本と違いすべてのギャラリーにおいてディレクターによる作品審査を行い企画展形式で運営していた。私に対する評価は、「作家自身が素材制作から取り組み、表現には日本人としてのアイデンティティーに立脚したオリジナリティーを感じる」ということであった。日本人スタッフのいた香港の財団が経営するartbeatusで開催した。作品展を見たバンクーバー在住の美術評論家による書評の抜粋を簡単な個展評価として紹介する。「印刷やネットなどのメディアがアートを伝える大きな手段となる現在だが、原の作品は、直接作品を見ることでその真価がわかる。また、そうした表現分野が今も歴然して重要であることの証明である」。また、同時に2008年artbeatusの所属作家として東京国際フォーラムで開催する『アートフェアー東京』にも計3回出品した。元来アートフェアーに代表される催しは、日本では、歴史も浅くこれが2000年以降、日本のアートシーンを代表することになると思ったが2009年に起こったリーマンショックがもたらした国際経済不況が予想以上に深刻さをもたらしたのか各ギャラリーの出品作家も大きく変わりartbeatusも2011年には撤退する。芸術的課題というより経済状況に大きく左右される脆弱さが垣間見られた。
 私が和紙を素材とすることは、日本人であるというより和紙という物質との出会いや自分の記憶、潜在意識によるところが多い。和紙の美しさそのものを享受してもらう為、それを生かす表現とは何か、そうした思いのきっかけとなったのは、かつて大学時代に『もの派』」と呼ばれたコンセプチュアルアートの先駆者、李禹煥先生の大学での授業が私に大きな影響を与えていると思う。「何かを描く」のではなく「物質そのものと対峙することで、自己対峙が深まる」という授業であった。今も鮮明に覚えている。
 マスメディアや、インターネットにより新たな価値観が普及していく。これが現代の主流であろう。しかしそうした戦略を駆使した表現ではなくとも直接、人の心を打つ表現は私にとって制作の大きな指標である。国際化が日本社会の大きな使命であることもわかるが、国際社会において自分の立場がどうであるか、また自分自身が何者であるかを自覚しうるのは、自己の作品と深く向き合うことでなされると信じまた、これによる表現を追求することが私の役割だと思っている。
 
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原 博史さん

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